雑記: 2005年9月アーカイブ

表現

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全身にまとった発光ダイオードをネオンのように点滅させるスパコンの数々。
ここは地下のコンピュータールーム。
突如、コンソールから穿孔テープがけたたましく打ち出される。
オペレータはそれを手に取り一目見るや否や人を呼ぶ。
「これを見てください!」
そうテープを見せられた責任者もまた血相を変えていく。
「大変な事になるぞこれは…」

もう、これ以上「大変な事態の前触れ」を感じさせる表現はないと思う。コンピュータという訳の分からない物と、未知の「予測可能な」出来事の絶妙なミスマッチだ。訳の分かってしまう物と予測可能な出来事を組み合わせてしまうと、同じような効果は受けられない。トイレのペーパーホルダーのカバーを持ち上げて「大変な事になるぞこれは…」ではダメなのだ。

古典的な表現はなぜ使い古され常套手段になったのか?
一笑に付す前に一度考えてみると、新しい表現に繋がるのかも知れない。

ソーメンのつゆを、麦茶と間違えて飲む事はよくある。麦茶を飲みたい時は大体喉が渇いており、ゴクゴク飲んでしまうので被害を拡大させてしまう。過去何千回と繰り返されて来たこの行為を、WHOはいまだに勧告もしなければ警告もしない。人がこの問題を克服する事は出来ないのか?その問いに、シュレーディンガーの猫を使ってみる事にした。

猫を麦茶のポットに置き換えてみよう。麦茶のポットと、そのポットの中に茶色の液体を入れておく。観測者は直接飲んでみないとそれが麦茶なのか、ソーメンのつゆなのかは特定出来ない。さらにこれを箱に入れて、味の観測をできないようにしてしまう。

麦茶のポットの中身は麦茶なのか?ソーメンのつゆなのか?
コペンハーゲン的な解釈をすると、飲む瞬間まで「麦茶とつゆが量子的に重なり合った状態」であり、観測者が実際に飲んだ瞬間に「麦茶」、もしくは「ソーメンのつゆ」に収束する。口に含んだ瞬間に決定される、という事らしい。
一方エヴェレット的な解釈はこうだ。液体は「麦茶とつゆが量子的に重なり合った状態」である事は変わらないが、観測者もまた「麦茶を飲む観測者」と「ソーメンのつゆを飲む観測者」の両方が量子的に重なり合ってしまう。これはそれぞれの結果を迎えた平行世界が同時に存在する事を示す。まるでタイムパラドックスのような話だ。

これを私の実験結果に当てはめてみた。
コペンハーゲン的な解釈をすれば、ポットの中にはあらかじめソーメンのつゆが入れられており、私は知らずに飲んでひっくり返ってしまった。
エヴェレット的な解釈をすれば、ポットの中にはソーメンのつゆが入れられており、私は知らずに飲んでひっくり返ってしまった。だが、もう一つの世界では麦茶が入れられており、何事もなかった私が居るはずだ。

どちらにしても、飲んでみるまで判らない。この問題についてはまた違うアプローチで考えてみる必要がありそうだ。

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